金田式アンプの不思議な魅力

金田明彦氏のオーディオについてやアンプ作りについての考えを2008年頃までの記事の中の巻頭言や”はじめに”から見てみましょう。
1973年に発表されたDCプリアンプの記事の“はじめに“ オーディオ・ファンでも生の音楽を知らない人が多いが非常に奇妙なことと言わざるを得ない。オーディオとは音楽を再生する手段にすぎず、音楽の生の音楽を知らないでオーディオ研究をしても何にもならない。 生の音を知らないオーディオ・ファンは音のよりどころとしていわゆる世界の名器と称されている装置を本当の音と思い込んでいる。 機器の個性を、メーカーは音楽的個性といって宣伝し、ユーザーはそれを鵜吞みにして個性を楽しんでいる。 彼らにとって再生装置の個性を楽しむのがオーディオの目的であり、レコードはスピーカーを鳴らすための手段に過ぎない。 1978年の「改定版最新オーディオDCアンプ」の巻頭言では、オーディオにおいて原音場を再現することは、録音の方法・2チャンネルにおける再生、再生音場の違いによっての原理的に不可能である。 オーディオの目的は音場の再現ではなく、音楽のイメージの再現であり、物理的な音の再生ではなく音楽のイメージの再現である。 再生音の評価はリスナー一人一人が判断すべきであるが、リスナーさえ満足ならばいいわけではなく普遍的な音楽再生が必要。 リスナー自身の人生観を再生音で表現するには、アンプを自作するのが最も良い手段で、再生音楽の内に自己表現をするからアンプ作りに熱中するのだ。 1989年に発行された「時空を超えた音楽再現 オーディオDCアンプシステム」の巻頭では、原音がわからないレコードばかりでどうやって正しい音の判定ができるのか、原音の記憶が残っている録音テープこそが客観的な判定ができるということ。 1990年のハイブリッドDCパワーアンプの製作(No.118)の”はじめに“では真空管の素晴らしさはオーディオ用として作られそのためにだけ生まれ育ったデバイスは無く、半導体では考えられないことだ。 半導体エンジニアがオーディオアンプに使えるトランジスタの開発に躍起になった時代が、その後エンジニアはLSIの開発に回され、コストダウンのためにトランジスタの製造方法が変わり音の良いトランジスタが絶滅し、音の悪いものだけが生き残った。 音楽再現のために進化してきた半導体DCアンプの回路技術が、オーディオ用に生まれ育った真空管に生かされたら互いの利点がいかんなく発揮されるアンプができたら未知の音が出るかもしれない。 2003年の「オーディオDCアンプ製作の全て」の巻頭では、アンプの追求の仕方はヒアリングテストを最も重視するが、鑑賞する立場ではなく演奏する立場で判断することが多い。 演奏する立場になって自分の思った表現をするには高度の分解能とレスポンスが要求される。 DCアンプというと高度の特性を追求して生まれたアンプと思われがちだが、そうではなくDCアンプの特性は音楽再現のために必然的に備わったものである。 デバイスには固有音があるがあまり気にしない、デバイスの表現力を活かしそれらを結合させて音楽を聴かせる努力をする。オーディオは自己表現の手段である。 2008年D/Aコンバーター(No.196)”はじめに“ かつてCDは聴覚破壊機以外の何物でもなかった。 変換・逆変換に伴って貴重な音楽情報を失うだけでなく、醜悪な付帯音が限りなく増殖しはびこる。 DCアンプの後にACアンプで聴くと情報欠落ならまだしも、まるで故障したような音に聞こえる。 私が聴いた国産のCDプレーヤーはアナログ回路がACアンプだが、それをDCアンプでCDを再生するとどうなるか・・・・これから金田氏はD/Aコンバーターの製作が始まっています。
その後はMJ誌を買っていないので最近の氏の考えは分かりませんが、この観念的なコメントと探求心とカリスマ性が金田式アンプのファンを引き付けているのかもしれません。
私は45年前から金田式アンプオンリー(真空管アンプは除いて)で、氏の考えに100%同感ということでもありませんが、ひとたび金田氏の何かに引き付けられると(何かは人それぞれでしょうが)なかなか離れられないということでしょうか。 それだけ魅力のあるアンプ(金田氏)なのかと思います。
注)上記は私が記事から要点を抜粋したもので、ニュアンスが違っていたらご容赦ください。